今月の「用と美」
プロフィール


 最近、硯で墨を擦ったのはいつだろうか。昨日という人もいれば、小学校の授業以来という人もいるだろう。鉛筆もボールペンもなかった時代、筆記用具としてなくてはならなかった硯。また、筆、紙、墨、硯は文房四宝と呼ばれ、現代も文人墨客はもちろん、こだわりや愛着を抱く人が多い。
 山梨県甲府市からJR身延線で南下すること約1時間。南アルプスの麓、富士川が流れる鰍沢(かじかざわ)の町は初冬のしんとした空気に包まれていた。町からさらに山の奥で採石される雨畑石(あめはたいし)は、日本で最高級といわれる硯の原石だ。この地に元禄3年(1690年)の創業以来、320余年に渡り硯づくりを営む雨宮家を訪ねた。雨宮弥太郎さんは13代目。ここは江戸か明治かと錯覚するような板張りの工房に、ゴリリリ、ゴリリリと石を彫る重低音が響く。

 東京芸術大学で彫刻を専攻した。大学院時代にはイタリア人の彫刻家に見込まれ、ヨーロッパを代表する彫刻の街、イタリアのピエトラサンタに数ヶ月滞在。その地に作品を残し、日本でも現代彫刻での個展を開いている。そうして12年間鰍沢を離れ、弥太郎さんは家業を継ぐべく故郷に帰ってきた。野外にも展示されるような大きな彫刻作品から、机上の硯の世界へ…。
「この家に生まれ、硯づくりを見て育ちましたが、父親(現当主、12代雨宮弥兵衛)から教えられたこともありませんでした。ただ、子どものころからものをつくるのは好きで、うまくすり込まれていたのでしょうね。家を継ぐのは当たり前のように感じていました。帰ってきたころは、石を彫るのだから彫刻と同じ。すぐに新しい、現代的な硯がつくれると思っていました(笑)。ところがやってみると、まったく違う世界。ただ奇抜な硯なんて本当にみっともない。簡単には太刀打ちできないと思いました」。



 中国から伝来した硯が日本でつくられ始めたのは、奈良時代のころと言われている。ただし、そのころは土を焼いた陶硯であり、室町時代の終わりほどになってようやく、石彫の硯がつくられるようになった。けれども日本の硯は永らく中国の模倣の域を出ず、多くは硯箱の中の四角い硯であり、作家ではなく職人中心の仕事だった。その流れを大きく変革し、日本人の美意識で作品としての硯を追求し近代工芸の地位を確立したのが弥太郎さんの祖父、雨宮静軒(11代弥兵衛・1892〜1973)だった。
 弥太郎さんは歴史に培われてきた硯の在り方、品格、古典の大切さを痛感し、祖父や父の作品と対峙し、一から学び始める。

「伝統的な花鳥風月のモチーフに学び、今の時代にあった新しい硯をと試行錯誤の日々でした。思えば硯づくりを始めたころは、彫刻はアートであり、硯は伝統工芸。二つは違うものだと感じていました。だから3年ほどして東京で個展を開いた時も〈すずりいしのオブジェたち〉というタイトルで、まだ硯として発表できませんでした。1990年に日本伝統工芸展に初めて出品し入選。自分なりの硯の造形性を追求するようになりました。そうして制作を続けていくうちに、アートと伝統工芸の垣根が消えていき、自分の思いを込めてつくったものはひとつなのだという発見がありました。25年間、追求してきた今は、硯こそ自分にとっての現代彫刻だと思っています」。

 工房で作品「環池硯(かんちけん)」を見た時、まず「宇宙」という言葉がやってきた。薄くシャープな長方形の中に、墨を擦る「丘」、墨汁をためる「海」が正円で造形されている。現代的なフォルムからダイナミックなエネルギーと密やかな囁きを感じる。遙か古代の祭器のようにも見えてくる。でもそれは目の前にいる、今を生きる人がつくった硯だった。

漆芸 小椋範彦白瓷 前田昭博鋳金 畠山耕治色鍋島 今泉今右衛門竹工芸 武関翠篁陶芸家 鈴木 徹